座右の書 vol23 「超」入門 空気の研究 著者 鈴木博毅

私が勤めている会社でも、職場でも、昔通っていた学校にも、何か私を縛っている「空気」というのは存在しています。

 

昔、太平洋戦争においても日本人に覆われた「空気」によって、敗戦になりました。

 

また私にも子供がおり、学校のいじめのニュースを聞くと不安になってきます。学校内にも何か「空気」というのは存在しております。

 

私たち日本人を縛っている「空気」の正体を解き明かした本書は、今後日本社会で生きていくには必要、空気に縛らないためには知る必要がある書かと思います。

 

気になったポイントをあげていきます。

 

 

「空気」=ある種の前提

 

日本では、言論の自由はタテマエで、実際には「空気」という規制があることがわかります。空気は、その一線をはみ出てはいけない境界線として意識されているのです。

 

空気は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者は異端として「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ。

 

不祥事や悲劇、大失敗が空気を起点に始まる最大の理由は、特定の集団が自分たちの前提に都合の悪い現実を一切無視させて、隠した現実が含むリスクをその他の者たちに知らせないためである。

 

"空気"そのものの、論理的正当化は不可能である。

 

臨在感  因果関係の推察が、恐れや救済などの感情と結び付いたもの

 

臨在感は、物理的な因果関係があるときも、ないときも生まれる。それにより、時に論理よりも早くリスクを発見できる。しかし、感情と結び付けて、前提の刷り込みが行われるため、大衆扇動術としても日々利用されている。

 

本来の科学的思考は、命題の相対化を必要とするが、空気による支配が横行する日本では、「科学的」という言葉が、ある種の命題を絶対化するために誤用・悪用されるケースが多い。

 

日本しか知らないということは、日本をまったく知らないということである。

 

日本ではムラの外を知ることが、権力や富、支配力の源泉となる。

 

学級や学校への囲い込みを廃止し、出会いに関する広い選択肢と十分なアクセス可能性を有する生活圏で、若い人たちが自由に交友関係を試行錯誤できるのであれば、「しかと」で他人を苦しませること自体が存在できなくなる。